ここ6、7年の発表作を遡ってみても、柴田まどかの油彩画において、花というモティーフがいかに重要な位置を占めてきたかがわかる。しかし、花にこだわってきたとはいえ、彼女が対象とするのは身近の自然のうちに生きてある花々であって、切り花に象徴されるナチュール・モルト(死せる自然)としての静物画ではない。また、植物学的な視線で観察され、微に入り細をうがって再現された花譜、たとえばフランスのルドゥーテや日本の杉浦非水らの作品とも隔たっている。他にボッティチェリの神話的寓意やルソーの楽園幻想などを彩る花々もあるが、いずれも抽象度の高い柴田のそれとは別物だろう。むしろ彼女の画面にしばしば登場する鳥に鑑みて、現代の花鳥画と呼ぶとしようか。
ところで柴田絵画の抽象性は、緻密な形態描写を切り詰める造形上の動機よりも、彼女がいうところの「視界」全域を、光あふれる色彩で埋め尽くしたいという意識から促されているようにも思われる。それはたとえば、2006年の《ピンクである花のパターン》あたりから始まって、《遠くまで黄色い》(2009年)や《花が並ぶ》(2010年)、《咲いた、さいた》(2012年)などまで、揺るぎなく一貫されているといえるだろう。とりわけ後の三点に顕著なように、近年の花々は個別の形態がほとんど色彩のマッスと化し、隣り合うそれらが連結しながら領域を拡張して、白昼夢さながらの色彩劇を繰り広げてやむことがない。実際これらの画面における花のフォルムは、それ自体の優美な姿を表すより前に、光り輝く色彩を引き寄せる磁場と化しているかにみえる。
他方で、仰角的構図で無限の奥行き感を呼び覚ます《花の視界》(2009年)や《花のあいだ柄》(2012年)、《上へ向かうように見える》(2013年)、大胆なクローズアップを際立たせた《庭を覗く》(2012年)や《中心にいる》(2012年)、花が木漏れ日に変容した《遠くまで光がいる》(2012年)などのように、従来の殻を破ろうとする注目すべき新機軸のチャレンジも楽しめよう。ただし、これらの試みには、上から順にたとえば日高理恵子、オキーフ、丸山直文による先行的な類例が見受けられなくもない。だからこそ柴田には、現在地点に踏みとどめることなく独自の新境地に向けて、さらなる探求と実践を期待しないではいられないのである。 三田 晴夫 (美術ジャーナリスト) |