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今後の展覧会
〜悠久の空間〜
2008.11.21 - 29
伊藤隆道 + 大野廣子
〜黒と白〜
2008.10.17 - 25
岡田忠明 + 高濱英俊
2008.09.19 - 27
尾形純
過去の展覧会
2008.06.19 - 25
ニノ・カルミゼ
グルジアの作家カルミゼさんは、夫のザザ・ゴグアさんと共に大変な親日家でもあります。日本に永く滞在していましたが、現在は本国に戻り、年に1度のペースで来日、個展を開催しています。
彼女の作品を紹介するにあたり、まずグルジアについて少々知る必要があります。ソ連の崩壊と共に独立を果たしたグルジアは独自の文化を持つ国ではありながら複合的な要素を持っております。国の宗教はギリシャ正教の流れをくむグルジア正教です。キリスト教国でありながら、長い歴史の中で多くの文化の影響も自国のものとしています。ヒンカリという肉まんじゅうは、モンゴル帝国の遺品とも言えます。またこの国の暦にはグレゴリオ暦とともに十二支もあります。一方で永く支配されたイスラムの面影も数多く残っています。それは国立オペラ劇場の建築であり温泉の建物の様式でもあります。伝説では、王女メディアの生誕の地、ノアの方舟の降り立った土地とあります。また黒海の東に位置する南コーカサスの自然は四季の変化に富み、ワインのふるさととしても有名です。人々はロシア語と共に自国語のグルジア語とグルジア文字を用いています。この国は、シルクロードの中間地点であり、東洋と西洋の十字路というより古くから東洋と西洋のスクランブル交差点でもありました。
こうしたこの国の性格は、彼女の作品にも色濃く表れているように思います。具象的表現でありながら、装飾性や象徴性を備えた画面は見るものをさまざまな空想の世界に誘います。また、色彩の柔らかい変化も彼女の絵の特徴です。描かれた対象とその背景が渾然一体となっている作品も多く見られます。時には何が描かれているのかを忘れさせ、音楽のハーモニーのように色彩がさまざまな曲想を奏でます。複合的なイメージは彼女の生まれ育ったグルジアの特徴かも知れません。
作品のテーマは様々ですが、中心となるのは音楽を主題としたものでしょう。「ピアニスト」「カルテット」「ピアノ五重奏」「コンサート」などの作品は、具象でありながら非常に象徴性の高い作品です。彼女のテーマはそのほかに子ども、家族、花など身近で親密なものが多く見受けられます。またユーモアやトロンプルイユ(だまし絵)的な要素も見受けられます。例えば「ハイド&シーク(かくれんぼ)」という作品では画面の中に何人かの子どもがかくれています。
今回の個展では、このような多面的な彼女の絵画の性格のうち、どのような側面を見せてくれるか、または新しい面を見せてくれるのか楽しみです。個展会場では彼女の絵画への出会いと共に、彼女自身との対話も楽しんでいただけたらと思います。
2008.06.06 - 14
最上壽之 + 高濱英俊
彫刻とは、と英国の詩人・評論家ハーバート・リード卿(1893〜1963)が言い得て妙な定義を下している。それは一つの材質から別の材質へと意味を置き換えることだ、と。たとえば女性の身体を対象とする場合、そのかたちをそっくりに物体でかたどるのではなく、物体のかたちを通して女性の身体をとらえ直すことが彫刻というわけである。つまりリード卿は、かたちの直訳ではなく意訳こそが彫刻の本質なのだ、と言いたかったに違いない。その意味では最上壽之ほど、かたちの名翻訳家と称したくなるような彫刻家もいないだろう。木を主素材とする彼の彫刻は、決して対象のかたちをそっくり模したものではないが、さりとて純粋抽象の彫刻とも似て非なるものだ。歩行したり、横たわったりといった人間のしぐさをどこか想起させるように、それは生きて在ることと深くかかわり、その実感をさまざまのかたちへと翻訳したものであろうから。
いや、それだけではない。美術評論家・中原佑介がいみじくも「作品が話している彫刻語」と指摘した最上の作品タイトル、たとえば擬音語や擬態語までもひっくるめたオールカタカナ文字のタイトルが示すように、彼は物のみならず言葉によっても、その生の実感を独自のかたちへと翻訳し得る希有な達人なのだ。最上のつむぎ出すユニークな物のかたち、言葉のかたちは、どこまでもカラッとした軽妙洒脱なユーモアに満ちあふれ、権威や権力を笑い飛ばし、通念を脱臼させていくかのようで爽快この上ない。しかし、その笑いと挑発の後に訪れるのは、決してしらじらとした虚無の荒野なぞではなく、生の温もりをほんのりと漂わせた世界だろう。物と言葉の絶妙な二重奏が織り成すこの特異なモルフォロジー(形態学)は、ここに出品された木彫やオブジェ、ドローイングからも存分に味わえるはずである。
言葉といえば石彫家の高濱英俊も、長きにわたって水というモチーフにこだわり、水の語る言葉に耳を傾けてきた人だった。リード卿にならって彼の彫刻を、石に置き換えられた水のかたちと呼びたくなるほどに。何が高濱をして、水なる主題に向かわせしめたのか。それは「水の言葉は地球の内なる声に他ならない」という彼自身の記述に尽くされてもいよう。もちろん水の惑星という環境論的な認識を度外視するつもりはないのだが、ここでは「地球の内なる声」を「人間の外なる声」と読み替え、近現代文明下の人間至上主義に対する批評的意識の発露と受け取ってみたい。というのも、断片化されたかたちや複合的な彫刻のつくりが、全一的な人間像とは対極をなすように思えるからだ。曲線を基調とし、なめらかな表皮とくねくねしたユーモラスな形態に特徴づけられたそれは、まさしく流動する水のような自在感を目に焼きつけていく。
2008.05.09 - 17
上前智祐
具体美術協会とは画家吉原治良の指導下、第2次大戦後の関西で産声を上げた伝説的な前衛美術家集団である。ミスター・グタイとも称される吉原が、「誰もやっていないことをやれ!」と若い会員たちを叱咤したというエピソードは余りにも有名だ。「グタイ」とか「GUTAI」とも表記されるのは、海外にも早くからその名声が轟いていた証だろう。上前智祐は1954年の会創設に加わった最古参の一人であるから、当然のことながらその栄光の恩恵に浴してもおかしくはない。きっと地元の関西ではそうだったかもしれないが、なぜか東京や他地域で具体というと、吉原は別格としても必ずといっていいほど名の挙がるのは、白髪一雄や元永定正、村上三郎、嶋本昭三、金山明、田中敦子らに限られて、上前の存在は見過ごされがちであった。
その仕事が見劣りするならまだしも、上前の芸術は決して格下ではなかった。にもかかわらず、時流が上前よりも白髪や元永、村上らを選んだのはほかでもない。師匠の「誰もやっていないことをやれ!」というアジテーションに、白髪らは奇想天外なアクションなどで応じたが、上前は物いわぬ物質との対話を介して、ただ黙々と絵筆を振るっていただけだからである。美術に限らず、どんな集団にあってもその成員は動か静か、陽か陰か、派手か地味かといったタイプや役割をいや応なく担わされるものだ。世間の目を一瞬のうちに引き寄せる身体表現にくらべ、密室で絵画に打ち込んでいた上前の地道な探究がいずれに映ったかは火を見るより明らかだろう。しかし珠玉の絵画を集めた今回の個展によって、上前が日本の現代絵画史にどれだけたわわな果実を実らせてきたかを、この東京でも再認識せずにはいられなくなる機会がやってきた。
そこには1960年代から油彩や1980年代からの縫いシリーズなど、近年に至るまで時期ごとの作品が選ばれていて、上前芸術とは疎遠だった観客もおよその作風の変遷をつかむことができる。だが、その展開の多様さに優るとも劣らないのが、一貫して表現の通奏低音をなし続けてきたところの、雄弁な言葉をつむぎ出してやまない物質的な絵肌にほかなるまい。ゴッホばりの長めの点描をリズミカルに積み重ねた画面のように、それは厚塗りした油絵の具だけからたらされる場合もあれば、絵の具チューブの口やからまり合うオガクズなど生の物質を彩色して盛り上げたような場合もある。像を封じられた非具象絵画においては、個の独創はマチエールのうちにこそ受胎されることを、たぶん上前は他のだれよりも知り抜いていただろう。物質を飲み込んだマチエールから、深々と自己の刻印された表現が立ち上がってくるということを。
2008.04.10 - 19
浜田浄 + 井崎聖子
おびただしい映像に浸された時代の宿痾ともいうべきか。絵画においても、新奇なイメージやそれをひねり出すための発想と技術の競い合いばかりが、目下の関心事となった感がする。けれども、そのようにして仕上がった絵画は、束の間の快楽を催させることはあっても、やがては消費する側の際限ない視覚の欲望に追い抜かれてしまうだけだろう。絵画が一時の消費にではなく歴史の風雪に耐え切っていくためには、たとえそれが迂回や逡巡に見えたとしても、イメージや発想や技術の発明競争とは似て非なる射程を備えた探求が不可欠なはずである。若い画家たちを、そして彼らを待望する者たちを、そのような探究や探求を見守ることの大切さに目覚めさせるのは、現に探求を続けてきた画家たち、たとえば浜田浄や井崎聖子の成果に触れることにほかなるまい。 ここでは<表面の背後>もしくは<表面の深さ>という、たった一つの事柄だけに絞って彼らがなし遂げつつある成果に迫ってみたいと思う。それは当然ながら、彼らの絵画の成り立ち方とも密接にかかわっている。
まず浜田は同一の色彩を担った線やストロークの集合を一つの層として、あたかも地層のように別の色彩を担った集合を積み重ねてオールオーバーの画面を作り上げる。 続いて今度はナイフや鉤などを使って出来上がった表面を掘り返し、下層やそのまた下層の色彩を、さらには最下層の画布の地肌を露呈させていくのだ。そんなおびただしい痕跡群が私たちの見ている表面をダイナミックに浮き沈みさせ、あたかもその背後から未知の光がにじみ出してきたかのような情景をつづれ織るのである。
対照的に、井崎の色調は彩霧のようにおぼろげで淡く、その塗りも透けて見える被膜のように薄い。半透明の淡くやわらかいヴェールを思わせる幾条もの色彩流が、音もなく眼前を下っていくかのようだ。そして、それらの流れが接してわずかに重なり合った境界が刻む筋。それは、私たちが見ている表面の見えない厚みを喚起する符牒ともなるだろう。視線を<表面の背後>に回り込ませ、<表面の深さ>を渉猟させた末に、逆送して画面のこちら側へと折り返させるという点では、彼女の絵画も又、浜田の絵画の成り立ちと本質を共にしているといっていい。「絵画とはすべてを受け止める器である」と、ある画家が書き記した名言を思い出す。
そう、浜田と井崎の画面が告げているのも、絵画が無限に向かって開かれた「器」ということなのだ。
2007.11.21 - 30
上條 陽子
美術家はその作品をとおして自己を表現しています。それを観る側のコレクターも好みに合った=感性・精神性が自身に合致した作品を求めています。…から、コレクターの人柄・センスは収集作品の組み合わせで知ることができます。南青山「DOKA」現代美術ではコレクターの視点に立って、作家を捉える企画展を重ねています。
今回の国際作家・上條陽子氏は、広いスペースでの「インスタレーション」を中心に幅広いテーマを表現する作家ですが、個人コレクター向けの作品の入手機会が少なかったのも事実です。このたびの「DOKA」での個展では、個人収集家向けの黒い作品でまとめました。また、1948年以降、国際的にも政治・経済・社会の各界では、パレスチナの民族・宗教・難民問題:貧困と文化の問題が取り上げられています。・・・
小さな画廊が発信するには余りに、大きなコンセプトですが、静謐で、洒落た空間に包まれた展覧会を、ご高覧頂き、お楽しみください。
2007.09.21 - 29
高濱 英俊 × 尾形 純
私たちが水から生まれた存在であるならば、私たちの芸術もまた、水の都というべき質感を湛えた精神世界に立ち上がるものであるといえるだろう。
今回の高濱英俊と尾形純のコラボレーション展は、まさしく私たちが帰るべき世界の質感 を、彫刻と絵画という、いわば水の変容たる造形によってもたらそうとする試みであり、それはまた、私たち自身が水そのものであったことを思い出すための、自己回復のための水の記憶を復元しようとするものにほかならない。
2007.05.21 - 31
上田のり子 × 高濱 英俊
南青山「土火」現代美術では、美術作家のコラボレーションをてがけています。
今回の上田のり子と高濱英俊は、現代美術界にあって常に質の高い、日本的な抽象作品を次々と発表してきました。
各々が「風(上田)と水(高濱)」を長年のテーマとして、繊細で高質、さらに「洒落て粋」な作品で知られ、海外の一部の美術ファンおよびコレクターからも根強く支持されてきました。
しかしながら、単に表面的で流行の波に乗った作家とは異なり、また高濱英俊にあってはパブリックアートとして石彫の野外彫刻作品であることから、一部の評論家、美術愛好家以外にはその作品と直に触れ、入手する機会が少なかったことも事実です。

このたび南青山『土火』現代美術 -DOKA Contemporary Arts-では、極めて繊細で高度に洗練された日本人の美意識を表現できる作家として絵画と彫刻の二人の競演を企画しました。
外国人作家にはない繊細で静かな作品群、極めて日本的なものこそが国際的なものであること・・・。
この意味で静謐で繊細な場を表現し、演出できる代表作家として二人を取り上げました。
身近に作品をお持ちいただき、作家とのパーソナルコミュニケーションを深めて頂く機会としてお楽しみください。
2006.12.04 - 16
菊地 武彦 × 尾形 純
現代美術画壇にあって菊地武彦と尾形純は質の高い、日本的な現代絵画作品を次々と発表してきました。
共に、しっとりとした、和風で高質な画家として知られ、海外の一部の美術ファンおよびコレクターからも根強く支持されてきました。
・・・・が、多作で流行の波に乗った作家とは異なり一部の美術愛好家・コレクター以外にはその作品と直に触れ、入手する機会が少なかったことも事実です。

このたび南青山『土火』現代美術―DOKA Contemporary Arts―では、極めて繊細で高度に洗練された日本人の美意識を表現できる作家として二人の競演を企画しました。外国人作家には到底求め得ない色彩感覚・湿度感のある作品群、極めて日本的なものこそが国際的なものであること・・・。この意味で現代の日本を表現する代表作家としての二人を取り上げました。
また、これらの「和」という点では共通した二人ですが、大いに異なる二人の「表現の違い」と「軌跡」を作家と共に振り返り、作品をご紹介します。

身近に作品をお持ちいただき、作家とのパーソナルコミュニケーションを深めて頂く機会としてお楽しみください。
2006.11.01 - 11
浜田 浄
現代美術画壇にあって浜田浄は極めて質の高い作品を次々と発表してきました。
高質で硬質な画家であることは多くの美術館にパブリックコレクションとして納められていることでもわかります。美術界に少なからぬ影響を与え一部の美術ファン、コレクターから根強く支持されてきました。
・・・・が、多作で流行の波に乗った作家とは異なり一部の美術愛好家・コレクター以外にはその作品と直に触れ、入手する機会が少なかったことも事実です。

 このたび南青山『土火』現代美術−DOKA Contemporary Arts−では1980年代の作品を集め、当時の「線による表現への移行とその後の展開」をコンセプトとして今日に至る浜田浄の軌跡を作家と共に振り返り、作品をご紹介いたしたく存じます。
身近に作品をお持ちいただく新たなファン作りの機会でもあります。

 自身の内世界と、社会との接点を模索し続けてきた浜田浄にとって、絵画は言葉にしきれない感覚を表現するための手段でもあり、 本展において浜田浄の描く透明感はその場の「空気」と良く調和し、以前からのファンの目にも新鮮なものとして映るものとご期待ください。
2006.05.15 - 27
共にまったく異なる現代的な表情を作品に表現しながら、それぞれに「古典」との関わりや起源を持つ日本人とフランス人、同時代の二人による絵画展

ルドネは、フランスで活躍する現代美術作家で、歴史のなかに現れる人物像や出来事をミクストメディアといえる手法で、コラージュやオーバーペイント効果により独特な材質感や表情を表現している。

尾形は、洋画の「古典技法」の地塗や発色の原理から着想した彩色の効果を、水性絵具に置き換え、独自の絵画空間を現している。
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